75年5月4日、間組関連の作業現場爆破事件を起こした後の同月31日、父親に電話で「岡山で女といる」と説明した桐島。その日を最後に長く消息を絶っていた。一体、どんな潜伏生活を送っていたのか。
「神奈川県川崎市の飯場で1年ほど過ごし、80年代からは現在の勤務先の工務店で住み込みで働いていました。寮は木造2階建てで、家賃は2万5000円。工務店では日当1万円で手渡しだったといいます」(同前)
そんな桐島の潜伏生活は今年に入り、急転直下。1月14日、勤務先近くの道でしゃがみ込んでいるのを助けられたのだ。
「近所の男性と2人で両脇を抱えて、彼の家まで引っ張っていったんです。1階の板の間に座らせたんですけど、六畳一間には石油ストーブが2台と、あとは段ボールなどゴミの山だった。火事になったら大変だな、と。その後、工務店の社長さんが救急車を呼んだみたいで、搬送されていきました。今思えば、声を掛けても『こんにちは』と返すけど、物寂しい感じでしたね」(近隣住民)
入院時の所持品はバッグとタンブラー、ボールペン、診療明細書のみ。貯金残高は240万円。
桐島は54年1月9日生まれだが、内田洋名義の診察券には52年9月1日生まれと記されていた。9月1日は奇しくも、反日武装戦線が三菱重工ビルの爆破を当初計画していたとされる日だ。
若き日の手配写真を彷彿とさせる黒縁メガネを、最後の日々もかけていたという。
文春オンライン
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